Commit suicide

みなさんの周りにも自ら命を絶った近しい人がいるだろう。
今から30年前、旅行したり、何かあれば会い話し、このまま互いの人生を見ていくのだろう、と思う友人が自らの命を絶った。

O君は札幌で育ち横浜に就職した。
クリスチャンのO君は、神道で育って高校だけ聖書を手にした私とは、Godに対する思いがかけ離れて清く強かった。
23の時に、ひとりで悩みひとりで自分の命を止める事を決めてしまった。
彼が命を絶つ朝、バスの停留所にいるのをみつけた。
「おはよう!、駅なら方向同じだから乗りなよ!」と赤いサバンナを横付けした。
普通に話した、普通に笑った。
駅についてサバンナのドアを閉め、2・3歩いた時に振りかえり、
「薫ちゃん、そのままでいてね、薫ちゃんの笑い声、忘れたくない!」
カッコよく走り去るサバンナにO君はいつまでも手を振り、それにハザードでこたえた。

翌日、朝ご飯を食べている時に、母が話し始めた。
『深夜O君が来て玄関を開けんだけど、「薫ちゃんに会いに来たけど、もう会えない。」って……』
母はこの時、すでにこの世の者ではない、どうにもならない、とわかったようだった。
O君はこの時、手を振る姿を私に見せ、台所の網戸の向こうに苦痛の表情で立っていた。
黒電話が鳴った。
警察に身元確認に走った

O君とは、たくさん話をした。
自殺は魂の目的を妨げるから絶対だめだ。
神さまの計画があってうちらはいるから、その計画を妨げるような行為は絶対だめ。
その大きな計画のために肉体をもって生まれ変わってきているから、その肉体を終わらせるのもうちらの意思ではできないもんね、大切な預かりものを抱えているもん。
魂を勝手に扱ったらだめよね、って。

彼は今世で初めて"自殺"を選んだのだろうか?
以前の生でも向き合った事があったのではないか?
いくつかの以前の生で向き合っていても自殺を選んでいたのではないか?
今世で、"自殺"を選ばない、という選択肢が訪れたのに、それ
を掴まなかった。
彼が次のパーソナリティに魂を抱き現れるのは、いつかわからない。
次現れた時に、"自殺"を選ぶ選択肢を知らない生を紡いで行かないとならない。

意識の連続性があったならば、今までどんな生を歩いて来たか忘れる事はないだろう。
同じ失敗なんかしないし、地位・名誉・財といった事に関し、ひょいひょいと努力もせず何事も成功するだろう。
しかしこの世は、今までのパーソナリティで失敗した事しか降りかかってこない。
一度成しえた事をもう一度経験するなんて、無駄な事をする世ではないのである。

日々の出来事の厄介ごと、職場の人間関係、思うけれど改善できない性格、何度も向き合うけれどうまく運ばない事柄、苦しさが増すばかりで何をどうやって誰に相談すればいいのかに悩み誰にも相談できない……苦しまみれになってしまう……しかし、そういう苦しみになってしまうのは然り、だって目の前にある苦痛、苦悩にあなたは始めて取っかかるのだから、難しく乗り越えられないと考えてしまうのは、当たり前。

前世では氣づかなかったのか、無視していたのか、はっきりと背いたのかはわからないけれど、今回は背かず、きちんと向き合うか、って思いになるのはどうかな?
今の苦痛・苦悩・痛みから目を背けず、真っすぐにそれを見て、向き合うというコマが、目の前にある事に氣づこうよ。

がんばろうぜぃ!
You are not alone!

生まれ変わる理由のひとつ

様々な活動をしている私たち。
その中で成功する人、失敗する人がいる。

成功すると人は自信が持てるようになる。
そしてその自信は、私たちに"恵"を与えてくれる。
"恵"を受け取れなかった心が受け取れるのは"うぬぼれ"。

"うぬぼれ"は心の腫瘍。
この"うぬぼれ"は、破壊を招く

事業で成功した人の心、仕事で大きなチャンスを掴んだ人の心、だれも成しえていない事を成しえた人の心、昨日出来なかったことが出来た人の心は、この病気にかかりやすい。

この"うぬぼれ病"は、強く心を掴む。
だから、うぬぼれの殻を脱皮するまでは、労役するためにもう一度生まれ変わねばならぬ。

           今年もマルハナバチさんがやってきた。