香り……

カーテンを開け、カレンダーを正し、サラッと掃除、CDをセットしアロマを焚く。

霧になり香ってくる香りはRavennaを始めてから変えた事がない、ラベンダーとオレンジ。

私を癒してくれるこの香りに……"ありがとう"、と毎度つぶやく。

20代後半から30半ばのメンタルで一番きつかった10年間もこの"ありがとう"の言葉と共に蘇る。
小さくころころしていた息子、必死になり歯を食いしばり生きていた啓の姿、笑顔も蘇る。
そんな中で訪れたバッチフラワーレメディ研究所。

白い木枠の扉を開けた時、私の全身を一瞬で優しく包み抱えてくれたのが、この香りだった。

理由などない、『ここで私は元氣になる、がんばれる。』、と感じた。

焚く度にここまでいちいち思い出すと、厄介な氣分になるが、そんな時は
大学生の啓の顔を思い出し、くすっと笑ってやり過ごす。

今朝は、曇り空にクルミの実が風でゆらゆらしてしている姿を見て、たくさん思い出してしまった。

この品種の盗難が相次いでいるニュースを見ながら、この梨を頂く……不思議な氣分……W

 

 

 

"話す力"

自ら命を切った人がいると、心の相談の電話番号が映し出されるが、いつも違和感を感じる。
公共の施設のトイレに入ると、目に入る所にそれらの番号が書かれた張り紙も見受けられる。う~なんだかなぁ……と感じる。

今日も朝からそんなニュースが流れてきていた。

『そこに電話すら出来ない人がそういう事に至ってしまうのに、情報を流す事しか出来ないんだよね……』
「そうだよね、誰かに話せればいいのにね。」
『それが出来ないから、このような事になっちゃう。』
「なんとかなんないのかな、いつも思う事だけど。」
『"話す力"がないんだと思う。"聴く力"が必要なくらい"話す力"も必要と思う。』
「そうだね、今こんな事で苦しんでいるんだ、どうしたらいいのかな?ってね」
『普通に自分の思いを話せればいい事なのだけれど、それが出来ない。産業カウンセラーの勉強の時に、"聴く"ってトレーニングは嫌という程やって、聴けなかった人も何とか試験にパスするくらいに上達するから、"話す"って力もトレーニングする必要があると思う。』
「Ravennaで、ずっとやっていることだね。」
『いえいえRavennaでは、わからない事があったら言って!勝手に自己完結しないで~だよ。あれ???これも"話す力"とも言えるわ……』

おっと、もうこんな時間!
啓ちゃん、今日はごみの日だよんヾ(๑╹◡╹)ノ”

あなたは"話す力"、持っていますか?


「おもちゃどこよ」『えへへ……^^♪』

変わる

blogを書くとコメントを頂ける。
とても嬉しい、ありがとう、と心から思う。

わくわくしながらそのコメントを読み進むと、感謝が並び、その後には謝罪が並ぶ……
ちょっとこれにまいっていた。
なぜにそんなに謝るの?、そんなに悪い事をしているの?あなた……ならば……って思う。

この世に生まれてきている事の真の意味を理解していれば、違う言葉が並んでもいいのにと……。
でもこれは私自身の考えであり、他者は違う、しばしの葛藤……。

ならば私の伝え方を変えよう、変える事にしよう。

 

レメディ教室

8月のレメディ教室での事です。

仕事場で家庭で、人が居るあらゆる場で何か自分に不都合、不愉快な事が起こると、それは自分ではなく周りが悪い。そしてそれに関わっている人を何とか変えようとする。

「自分以外の人が悪いから、その人を何とか変えようとして、頑張っていました。」

『えっ!』

「今でも氣を付けないとそうしてしまいます。」

私には理解できない。
何か事が起こったら先ず、私?私が何かした?どこでやらかしてしまったのか、と考えるけど……なんで世の人は人のせいにするんだろう……わからない……わからない。。。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」
旧訳聖書ヨハネによる福音書第8章3節~11節に、人を裁く権利や資格を持つ者はいない、という事が書かれています、関心のある方はどうぞ。

終戦記念日

今日は75回目の終戦記念日。
母のおじさんが特攻隊で飛び立つ前日に、真っ青な上空を旋回し飛び立って行った話、そのおじさんが亡くなったことを母に夢で告げて来た話を毎年この時期に思い出す。

若くしてお国のために自分の命を捧げるって、今の自分の事だけを考えて生きていく事を
許されている私たちには、想像もつかない。

『自分の命をお国に捧げた兵隊さんがたくさんいて、今生きている事が出来るんだよ。』と、戦争で自分の兄(母の伯父さん)を亡くしたおばあちゃんの言葉は、様々な事柄が訪れる私の生き方に、大きく意味を投げかけてきた。

自分のため、他者のため、地域のため、岩手のため、国のため、世界のために……と、どんな事にもこのように考えが膨らんでいかなければ、何一つこの世は変わらない思う。
自分に出来る○○のためにを意識して呼吸をし、今日も生かされている事を実感する……。感謝、合掌。

お盆ですね。

東北のお盆は8月、育った横浜は7月、伊勢は8月、何の違いでお盆の時期が違うのか、面白い……。
人の宗教心を作る事に脈略はない。

日々感謝していれば、お盆などという行事もいらないのにな……。

幼魂、見えるものしか信じない人、都合よく神仏を利用する人、ひとりで大きくなったと思っている人に、先祖さんの存在を示し、今の自分がいるのは先祖さんのおかげ、その先祖さんが一年に一度のお盆に帰ってくるよ、という既成事実……"敬う心"を育てる伝統行事。あとはお寺の都合……

諸説あるようだが、本来のお盆は7月、農繁期とぶつかる地域では8月になった。
今までずっと7月に帰って来ていた先祖さん方は、いつものように子孫が作ってくれていた精霊馬が用意されていなく、「あたしゃ帰れない?」、と焦ったかな?w

おじいちゃん、おばあちゃん、先祖さんが帰って来たという印をもらう方の話も聴く。
印をもらった方が感じるのだから、そうなんだと思う。

迎え火の日、馬の蹄の音が村中に響く。
その蹄の音が響くと一斉に迎え火が焚かれ村中が煙たくなる。
煙が消える頃には、先祖さん方は懐かしい我が家にはいり、おくり日の火まで子孫を眺め魂の休息をする。

お盆の伝統行事の数々……
迎え火、鐘の音、笛の音、念仏の音、松明の輝き、送り火……👻懐かしい……。

私も小さな頃からの伝統行事で、先祖を"敬う心"を思い出したひとり……感謝、合掌。

あ、ほうずき暖簾……ほんとの事はあの世にいったらわかるね。

Commit suicide

みなさんの周りにも自ら命を絶った近しい人がいるだろう。
今から30年前、旅行したり、何かあれば会い話し、このまま互いの人生を見ていくのだろう、と思う友人が自らの命を絶った。

O君は札幌で育ち横浜に就職した。
クリスチャンのO君は、神道で育って高校だけ聖書を手にした私とは、Godに対する思いがかけ離れて清く強かった。
23の時に、ひとりで悩みひとりで自分の命を止める事を決めてしまった。
彼が命を絶つ朝、バスの停留所にいるのをみつけた。
「おはよう!、駅なら方向同じだから乗りなよ!」と赤いサバンナを横付けした。
普通に話した、普通に笑った。
駅についてサバンナのドアを閉め、2・3歩いた時に振りかえり、
「薫ちゃん、そのままでいてね、薫ちゃんの笑い声、忘れたくない!」
カッコよく走り去るサバンナにO君はいつまでも手を振り、それにハザードでこたえた。

翌日、朝ご飯を食べている時に、母が話し始めた。
『深夜O君が来て玄関を開けんだけど、「薫ちゃんに会いに来たけど、もう会えない。」って……』
母はこの時、すでにこの世の者ではない、どうにもならない、とわかったようだった。
O君はこの時、手を振る姿を私に見せ、台所の網戸の向こうに苦痛の表情で立っていた。
黒電話が鳴った。
警察に身元確認に走った

O君とは、たくさん話をした。
自殺は魂の目的を妨げるから絶対だめだ。
神さまの計画があってうちらはいるから、その計画を妨げるような行為は絶対だめ。
その大きな計画のために肉体をもって生まれ変わってきているから、その肉体を終わらせるのもうちらの意思ではできないもんね、大切な預かりものを抱えているもん。
魂を勝手に扱ったらだめよね、って。

彼は今世で初めて"自殺"を選んだのだろうか?
以前の生でも向き合った事があったのではないか?
いくつかの以前の生で向き合っていても自殺を選んでいたのではないか?
今世で、"自殺"を選ばない、という選択肢が訪れたのに、それ
を掴まなかった。
彼が次のパーソナリティに魂を抱き現れるのは、いつかわからない。
次現れた時に、"自殺"を選ぶ選択肢を知らない生を紡いで行かないとならない。

意識の連続性があったならば、今までどんな生を歩いて来たか忘れる事はないだろう。
同じ失敗なんかしないし、地位・名誉・財といった事に関し、ひょいひょいと努力もせず何事も成功するだろう。
しかしこの世は、今までのパーソナリティで失敗した事しか降りかかってこない。
一度成しえた事をもう一度経験するなんて、無駄な事をする世ではないのである。

日々の出来事の厄介ごと、職場の人間関係、思うけれど改善できない性格、何度も向き合うけれどうまく運ばない事柄、苦しさが増すばかりで何をどうやって誰に相談すればいいのかに悩み誰にも相談できない……苦しまみれになってしまう……しかし、そういう苦しみになってしまうのは然り、だって目の前にある苦痛、苦悩にあなたは始めて取っかかるのだから、難しく乗り越えられないと考えてしまうのは、当たり前。

前世では氣づかなかったのか、無視していたのか、はっきりと背いたのかはわからないけれど、今回は背かず、きちんと向き合うか、って思いになるのはどうかな?
今の苦痛・苦悩・痛みから目を背けず、真っすぐにそれを見て、向き合うというコマが、目の前にある事に氣づこうよ。

がんばろうぜぃ!
You are not alone!

無題……

原因と結果。
この世の出来事全て、以前のパーソナリティ(肉体)で起こした事の結果。

"苦しさ"について語ろう。
この世の苦しさをこの世からの思考で片付けようとしても、片付かない。
あなたの苦しさは、この世で作ったものではないから。
あなたの苦しさは、周りが変わっても、居場所を変えても、年齢が変わっても、あなたの思考の出所がこの世からだから、その苦しさは繰り返される。
そして、そういう人は殆ど、"うぬぼれ病"に罹患している。

"楽しさ"について語ろう。
今、"楽しさ"を包み、この世に存在しているパーソナリティの中に在る魂は、千年かな?百年単位かな?それとももっと長い時間、この世からの思考で物事を見て、片付けていた。
何万回何千回と生まれ変わりを繰り返しながらも、その思考から抜けだそうと試み、もがき苦しみながらそれを繰り返し、その思考の根を焼け焦がすためにその思考を繰り返した。
そして、二度と芽が出ないように努力した。

"楽しさ"を包み込み生きている魂を、羨ましがってはいけない。
それこそが"苦しさ"の真っただ中だ。

偽の"楽しさ"に包まれている人は"苦しさ"に包まれている人に手を差し出す。
真の"楽しさ"を包んでいる魂は"苦しさ"に包まれている人に手は差し出さない。

善のカルマの重ね方

人の"どうしよう、困った"は日々の出来事から湧き出る。
昨日も自分が、あきれているのか?悲しいのか?怖いのか?それさえも心がざわつきわからない、といった言葉が並んだLINEが飛び込んできた。
暫くやり取りをしているうちに彼女は、ざわつきが落ち着いて来て、今起こってる出来事を客観的に見始め、良い學になりました、感謝です、という流れまでに。
Ravennaでの學が生かされていることが実感でき、嬉しかった。
彼女は善のカルマをひとつ重ねた。
でも、出来事が片付いたわけではない。
日々の出来事は、學の宝庫、これが実感できれば、心から"感謝""ありがとう”の言葉が自然と現れるようになる。